山口市の東部に位置する徳地は、緑深き山々に抱かれる自然豊かな地域。この地で育まれた上質な巨木は、12世紀、重源上人によって見出され、東大寺大仏殿の再建に使われました。
重源上人、そして徳地の森の功績は今もなお地域で語り継がれています。
源平の戦いで消失した興福寺の再建や伊勢神宮の式年遷宮などで、新たな杣から木材を求める必要があり、徳地の森が選ばれました。徳地の森は、東大寺の消失以前、平氏による福原遷都の際にも建築材の調達地に挙げられるなど、良質木材の産地としてしられていました。
重源上人とは
1121年、都の官人・紀季重(きのすえしげ)の末子として誕生。13歳で出家し、坊号を「俊乗房」、僧名を「重源」と授かり、四国や高野山などで修行し、宋(中国)へも三度渡る。1180年に源平の争いで東大寺が消失した翌年、後白河法皇から大勧進職に任命され、61歳で東大寺再興の重責を担う。大仏の鋳造・開眼供養を経て、大仏殿再建のため、1186年、東大寺造営料国の周防国(防府市)に赴任。杣(現・山口市徳地の山林)入りし、木材の切り出し、搬出などの先導や杣経営の効率化、作業者の福利厚生に力を発揮。1195年に東大寺大仏殿を再建した後も東大寺再興に力を注ぎ大和尚の号を授かる。1206年86歳で病没する。