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明治維新策源の地

 「長州(萩)藩の藩庁は萩で、廃藩置県で山口が県庁になったと思っていたので意外だった。」という話を聞きました。歴史ドラマではあまり描かれることのない藩庁の移転。

 文久3年(西暦1863年)4月16日、萩藩主・毛利敬親は、日帰りの湯治を名目として萩を発ち、山口中河原の御茶屋に入りました。この行動は、攘夷を決行に備えての、城地選定が目的でした。この時点における城地の最終候補としては、宮野と神峰(鴻ノ峰)麓説とがあったようですが、種々検討の結果後者で話がまとまり、同年7月には「山口移鎮」が宣言されます。

 これより先の文久2年7月6日、京都の河原町藩邸で開かれた御前会議で、藩の方針が「公武合体策」から「尊王攘夷策」へと、大転換が図られます。これを受け、移転の準備は水面下で着々と進められていたのです。山口城(藩庁)の構えは、「八稜城」といい函館の五稜郭とおなじ西洋式の城郭であったとされます。

 この絵図は、山口城(藩庁)が置かれた頃の山口市街を記した古地図です。中央上部に「御屋形」と書かれているのが山口城(藩庁)で、これより下方に山口市中が広がっています。

 右の写真は、明治維新から約100年後、今から約50年前の山口市街を写した写真です。古地図と比べてみるとわかりますが、幕末・明治維新のころの街並みをとどめていることが見て取れます。

 現地を歩くと、旧藩庁の門をはじめ、十朋亭などといったゆかりの史跡が現地に残るとともに、維新の志士たちが歩いた萩往還や石州街道といった「歴史の道」が、今もなお地域の人々の暮らしの中で活かされています。

 かつての藩庁は、廃藩置県により山口県庁となりましたが、本瓦葺の堂々とした藩庁時代の表門や堀の一部は今なお維新の名残りを留めています。また、英国に渡った長州ファイブの伊藤博文と井上馨の二人が、帰国後最初に藩内で滞在した場所として知られる萬代家の離れ座敷「十朋亭(じっぽうてい)」、さらに移築されてはいますが藩庁内で王政復古の大業について密議を凝らした場所とされる茶室・露山堂(ろざんどう)や、薩長連合の密議を重ねた建物とされる旧家・安部家ゆかりの枕流亭(ちんりゅうてい)など、市内各所に当時の遺構や伝承地が数多く残り、大切に伝えられています。

明治維新策源地 山口市 明治維新150年 2018年
 平成30年には明治維新150年を迎えます。明治維新策源地として現在、山口ではさまざまなイベントが行われていますので、この機会に歴史薫る山口を訪れてみられてはいかがでしょうか?

幕末山口市街図
幕末山口市街図(山口県文書館蔵)

昭和38年の山口市街地
昭和38年の山口市街地 国土地理院撮影の空中写真(1963年撮影)

上の2点は、明治維新の頃の町並みを描いた絵図と100年後に撮影された空中写真とを、ほぼ同じ画角で対比しています。

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藩庁門