山口萩焼

yamaguchihagiyaki

伝統と革新の美しき調和

 豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に藩主毛利輝元が陶工を伴って帰国(慶長9年・1604)。その陶工たちが萩に窯を開くことを許されたのが萩焼の発祥です。茶陶を中心に発展し、名品も多く生まれています。
比較的低い温度でじっくりと焼かれるので、土味をいかした柔らかい雰囲気が特徴。貫入という細かいひびを通して、使い込むうちに茶がしみこみ、器の色や雰囲気が少しずつ変化していくことを「茶慣れ」といいますが、この多彩な表情の変化が「萩の七化け」と呼ばれて茶人に愛されてきました。

 山口萩焼は大和作太郎(号松緑)が山口市宮野に窯を興し、萩焼の地方伝播の礎となりました。作太郎は安政2年(1855)萩城下で元和元年(1615)から続く呉服商大和屋に生まれました。家業のかたわら職工を志し、萩東光寺窯で職長として萩藩士を指導するようになりました。22歳の時、独立して松緑窯を開きました。明治22年(1889)には山口市竪小路の豪商万代彦七が経営していた万代窯の職長に招かれましたが、それは2年で閉めることになり、それを機に一家で萩から山口に移り住み、宮野に窯を築きました。「松緑窯」あるいは「宮野窯」と呼ばれ、松本萩の分窯として主に萩焼を制作。現在では伝統を踏襲しながら創意工夫を凝らし新しい試みにも挑戦し、山口萩焼の窯の火を守っています。